板橋・練馬・都立霊園・寺院などのお墓のことなら清水屋にご相談ください。御見積りは無料です。板橋・練馬・埼玉で施工実績3000基以上の石材店です。

お問い合わせ 03-3932-2670

2016.3.11 

2011年3月11日の震災から5年が経とうとしています。株式会社清水屋 専務取締役清水健介は一般社団法人 全国優良石材店の会(以下 全優石)の津波記憶石プロジェクトメンバーの一員としてこれまで活動してまいりました。5年が経った今を清水氏にインタビューしました。

津波記憶石に関わり5年

「2011年3月11日、未曾有の被害をもたらした東日本大震災。津波によって多くの命が失われました。2015年3月9日の消防庁まとめによると震災関連死を含み19,225人の尊い命が失われました。全優石ではこれまでに大小合わせて28号基の津波記憶石を建立し、2016年10月に八戸で29号基目が建つ予定です。僕が関わったのは岩手県大船渡市吉浜地区に建てられた27号基目です。人は本当に忘れていってしまうんです。毎年2~3月頃は震災のテレビ番組をやっているけど年間では圧倒的に報道は減っている。阪神淡路大震災のことはなおさら。今回5年という節目に当時のことを後世へ遺さなければいけないと考えました。」と清水氏。

板橋・練馬の地域もダメージは少なからずあった。

「僕の会社は練馬、板橋の地域でお仕事をさせていただいています。地震が発生した時僕は上板橋の会社にいました。テレビは横に前に見たことのない揺れ方をしていました。書類は落ちるし本当に死ぬと思いました。揺れがおさまり何も考えずとっさにお寺へ行かなければと思ったんです。車を走らせお寺へ行ったらバンバンお墓が倒れていた…。またお寺でも余震にあい本当に怖かったです。お寺さんの周りにも檀家さんの家があります。祖父の時代に作った檀家さんの家の塀も何メートルも倒壊してしまっていたんです。これは大変なことになったと正直思いました。震災後すぐにお墓の修理にまい進していたのですが仲のいい石屋さんのブログを見てみたらいてもたっていられずに仙台まで食料と水をトラックで届けたことが書いてあって僕も何かしたいと思っていたんです。一番最初に動いたのは社長で義捐金をすぐに出せと指示されました。さすがにトラックで現地まで行くという勇気が僕にはなかった…。」

津波記憶石プロジェクトへの参加へ。

「東日本復興委員会というのが全優石内で立ち上がったというのは聞いていました。全優石では色々な委員会にも参加させていただいていたので、もし声がかかったらやろうと決めていました。社長にもやっていいか?と聞き、好きなようにしろと言われたことを覚えています。

数日後、石材業界の会合や懇親会でも仲がよくなっていた 千葉県松戸市の㈱はぎの家石材店の萩元さんから電話がかかってきました。ピンと来ましたね。二つ返事でやりますといいました。テレビで見る各地の被災状況や原発の映像を見ていたので正直どういう顔で皆さんと会えばいいのか緊張していました。全優石の会議は目黒にあるインターロック社で行うのですが目黒駅から電車を降り歩いているとその本社ビルの壁タイルも落ちていた。東京のあちらこちらで震災の傷跡はあったわけです。」

忘れない石材店の社長さんの顔。

「震災復興の会議前の待合室で後にプロジェクトを進めていくメンバー数人と会ったのですが、その時の様子は今でも忘れていません。お通夜というか…。空気がとんでもなく重いんですよね。前に懇親会で会って明るく一緒に飲んだ社長さん達の顔が別人のようだった。福島県二本松市の湊石材 湊社長は線量計を持っていた。僕には衝撃的な光景でした。すごいことになってしまった。すべてのことが変わってしまったと。」

津波石 + 記憶石

「東日本復興委員会の会議でコンセプトはすでに決まっていました。上述した萩元さん、埼玉県上尾市の㈱大塚 大塚さん、北海道滝川市の山崎石材工業㈱の山崎さんが発起人となり石材業を生業にしている自分達に何かできることはないかと思案し『津波記憶石』というものを考えていました。

 

過去の津波において石が陸地に流されると昔の人はここまで津波がきたということをその石に彫り『津波石』として後世に遺していたのです。岩手県宮古市では過去の津波の生存者が『此処より下に家を建てるな』と刻んだ石碑を建立し、教訓を受け継いだことで甚大な被害を防いでいたのです。このような情報をまとめ、「津波石」と「記憶を後世に残す」という思いを合わせて『津波記憶石』というコンセプトが出来上がったのです。」